しあわせポン

小さな良いこと、おすそわけ

自衛権の本質は集団的自衛権だと思う

たとえば、私が誰かにケンカをふっかけられたとします。新宿の歌舞伎町を歩いていたら、前から怖そうな男が歩いて来た。これはまずい。因縁をつけられる。僕は本当に弱いんだ。だから、下を向いて歩いていこう。

 

でも、やっぱり声をかけられた。よお、兄ちゃん、金だせや。

 

ごめんなさい、僕は、弱い上に貧乏なんです。だから、あなたにお渡しできるようなお金は持っていないんです。

 

何をコラーっ。男の右拳が左頬に迫ってくる。こんなシチュエーション。

 

この時に、もちろん、反撃してもいいですね。相手の拳をさっと下に沈んでかわしながら、相手の胴に組み付く。もし、男がナイフなどを持っていて、それを振りかざしてくるのであれば、パンチやキックでの応戦も許されるかもしれない。これが、個別的自衛権です。

 

でも、まあ、自分のことだから、最悪、やられちゃってもいいじゃないですか。殴られたり、ナイフで刺されても、まあ、しようがないかなと。達観できるのであれば、一切反撃せずにやられちゃってもいい。

 

しかし。

 

もし、襲われたのが、一緒に横を歩いている家族だったらどうします? 自分はやられちゃってもいいかもしれないけど、家族がやられるのは絶対に許せない・・・と思います。これは、どうしようもない心情的なものです。

 

では、自分ではない、家族や友人が襲われたときに、反撃をしてはいけないでしょうか。もちろん、「してはいけない」という論理も成り立ちます。自分ではない他人が襲われたときには、だまって見殺しにしなければいけない。襲われてから警察に訴えて、相手には相応の責任をとらせる。こんな考えも成り立つ。

 

でも、一緒にいる家族や友人が襲われたら、私は反撃するでしょう。特に、愛する妻や子供だったら、絶対に反撃する。絶対にです。自分が弱いとか、関係ないです。自分の生き方を賭けて反撃する。これが集団的自衛権ですよね。

 

だから、自衛権という概念を考えたときには、本質は集団的自衛権の方にあると思います。個別的自衛権(=自分に対する自衛権)はあきらめちゃってもいいかもしれませんが、集団的自衛権(=大切な人を守る自衛権)はあきらめることはできません。

 

この権利は自然的なものであり、憲法すら関係ないと思います。